金属機械加工の世界に入った経緯
GSXR1100をパワーアップする為です
旋盤工の世界に入った時と同様に 新たな学びについて話します。
アフィリエイトという新たな収益を上げる、学びの経緯を書き留めます。
一歩踏み出す勇気をもって、
貫きましょう! ヤリタイことを!
戦闘機パイロットに成りたかった幼少期。
アメリカのスタントマン イーブルクニーブルに憧れた小学生時代。
次にレーシングドライバーと夢を見た。
中学生の時に視力が落ちて、パイロットの夢は絶たれたが、大空に関わりたくて航空整備士を目指すことに。公立で当時は成田の職業訓練校にしか航空整備科がなかったのです。
でも家庭の諸事情で紆余曲折、結局、小樽市銭函の職業訓練校自動車整備へ行きました。
スピードに目覚めたバイクレーサーに成りたくて。
整備士を目指すも半年で教官と喧嘩して辞めることになり、親父から自ら選択して辞めたのだから、これからは一人で生きてゆけと言われた。
トラックドライバー、土方仕事、英会話スクールの営業、看板屋の営業、型枠大工と、バイク屋でバイトしながらエンジン改造の日々でした。
最初に本田GL400でスピードに目覚め、2代目はヤマハRZ250でフレームからエンジンを改造し、部屋でくみ上げたりした。
三代目に一番スピードの出るという理由で選んだのがスズキGSXR1100でした。
すぐにフルパワー仕様でないことに気づき、パワーアップすることに。
そんなときに、1986年製スズキGSXR1100のシリンダースリーブの入れ替え手配をバイク屋さんに頼んだのです。
ボアアップです、バイク屋さんでは加工できないので名のあるボーリング屋さんへ頼んだそうです。
後でわかったことですが、ちょっとした加工ミスによるオイル漏れがあったのです。
結局バイク屋さんでオイル漏れを 直すことができずそれを直すために機械加工の世界に入ったのでした。
ボーリング加工の失敗が金属機械加工の世界へ
具体的には、GSXR1100は油冷エンジンでヘッドを冷却したオイルがクランクケースから伸びるスタッドボルトに沿ってシリンダーを通ってケースに戻ります。
シリンダーとヘッドの間にヘッドガスケットが入ります、そこにシールワッシャが入るのですが、シリンダー側にワッシャーが入るザグリ穴の深さが一箇所だけ深すぎて、シールワッシャが遊んだのです。
深すぎたためシールされずにオイルが漏れたのです。
当時、バイク屋レベルでわかる人は居なく朝日自動車美装のメカニックだった矢島さんが解明して教えてくれました。
「フライス盤と言う機械にエンドミルをつけて加工するんだ」 と。
初めて聞く言葉に想像すら出来ませんでした。
どこにあるのだろう、そんな機械。
バイク屋の紹介で札幌の金型屋さんを訪ねるも、図面がなきゃやらないと断られました。
朝日自動車美装の社長 清野ケンジ氏が、富士か鈴鹿の周りに機械加工屋が沢山あるから行ってみろと、言われたのでした。
26才の決断です。
東京で知り合いのバイク屋の紹介で、三角精機の木下国陸氏に出会うのです。
シリンダーを見せて説明すると、フライス盤が一台あいているから、自分でやって見ろと言われ、弟子入りすることになったのでした。
富士にたどり着く前に大田区大森西に住むことに。
町工場の中心地 羽田も近いしやって見るかとなったのでした。
道は開ける、踏み出す勇気をもって。
東京へ行く直前の平成元年3月まで、江別の松永忠の元、型枠大工で稼いでいました。
当時は景気が良くて、月に50万円以上稼いでいました。
バイク屋さんに毎月20万円払っていました。
大工仕事が忙しく休みが取れなかったので、バイク屋さんに改造のすべてを任せていました。
オイル漏れが解決できず、行き詰まっていたバイク屋さんへ4月から大工仕事を辞めて、手伝いに行きました。
バイト料は月10万円でした。
バイトが終わると、朝日自動車美装へ無料のアルバイトへゆき、エンジン加工のノウハウを学びました。
その年の6月か7月頃に三角精機の木下国陸氏と出会うのです。
GSXR1100の加工が終わればやめても良かったのですが、申し訳ないので3年間は何があっても辞めないと話しました。
木下国陸氏に弟子はとらないといわれ、月に15万円の昼飯付きアルバイトとして入門したのです。
エンジンの加工が目的だったので、給料なんてどうでもよかったのでした。
結局、6年間お世話になったのです。
そのころのスキルが今でも生きているのです。
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